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複雑

スポーツ観戦の習慣がないのだが、オリンピックの開会式は、いつも興奮する。演出とかは別にいい。いろんな人が関わって、大変だったのだろうな、大変なのだろうな、と思うくらいだ。それは何に対しても言えることだし。 引き込まれるのは、選手が入場してくるところだ。 世界中の様々な国からそこにやってきた人々が、次々に入場してくる。最初はただ楽しく見ているが、延々と続く中、目が離せなくなる理由がある。 国ごとの背景の違い。人々の態度、振る舞い。国によってだいぶ違うのが見えてくる。これは一体何なのだろうと思い始める。 最初は、若い頃の貧乏旅行で、いろんな国に行っていろんなことを見ていろんな人に出会ったこと、を重ねているのだと思うのだが、段々とそれも変わっていく。この年齢になったから感じるのだろうとも思うのだが、どうも違う気がしてくる。この感じは、もっと前からあったものだと思うようになる。小さいときから同じように感じて見ていたのを思い出してくる。 どんどん入場してくる違う国の人のかたまり。そこには、習慣とか伝統とかそれぞれの態度があって、変わるべきなのだろうが無理なのだろうな、とか、ここは守られていくべきなのだろうがそう簡単でもないのだろうな、とか、なんだかすごい複雑が見える。つまり、すごい現実が見える。そこに引き込まれる。 わーい、いろんな人が集まって、素晴らしいな、楽しいな、といった脳天気ではいられなくなる。 選手は当然、地味な努力と苦労を重ねた上での参加なのだからいいのだが、そこ以外の、元々はどうして参加に到ったかとか、そのためになにがなされたとか、オリンピックの成り立ちには全く詳しくないけど、そういうのをすごく感じるのだ。私が子供の頃からその空気に圧倒されてきたのだから、今も、そこを感じている子供はいっぱいいるに違いない。 フィッシュリ&ヴァイスの「ゆずれない事」を思い出した。 競技以外の時間は、シンプルに「交流」の人たちもいるだろうし、「休戦中」の人たちもいるだろう。どんな空気がそこにはあるのだろう。 「休戦中」に「交流」することで、相互理解に繋がるなんて、夢のまた夢で、夢が覚めたように帰国するのだろうか。 相容れない部分を互いに確認するのも、交流の意味なのだろうか。それをきっかけに変化が生まれることも、どこかではあるのだろう。